MOFONGO'S REGGAETON

プエルトリコのレゲトン

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レゲトンになる前のラップ&レゲエ(0)

(-1より)

3台くらい前の車が急に減速した。おい、なんだよ。
ジョレンス・トレスを26号線を区切る金網をよじ登る人影が2人ほど見えた。一人は乗り越えて逃げおおせたようだが、もう一人はいきなり道路側へ落ちて動かなくなった。
やばい。流れ弾はゴメンだ。頭を思い切り低くしてアクセルを吹かす。

翌々日の新聞に短い記事が出ていた。ドラッグ・ディールの絡みらしい。23才の若者が亡くなっていた。

◆◆◆


メデジン・カルテルのパブロ・エスコバルが射殺され、代わりにのしてきていたカリ・カルテルのロドリゲス・ファミリーが追い詰められて来たころ、USへの流通経路の統制はゆるんで来たらしく、メデジン系だったプエルトリコのシマの一部はドミニカン・マフィアに牛耳られる事になった。

米本土のへのドラッグの物理的な持ち込みルートは色々ある。航空機ルートなら手荷物/二重底という堂々としたものから、ビニールに包んで飲み込むという破れたら即死となるような命がけの方法もある。海経由は太平洋側からメキシコ・ルート、西カリブから同じくメキシコ経由、そしてカリブ・ルートだ。

DrugCoastGuard3s.jpg


コロンビアからアメリカの海岸近くまで小型機で夜、低空でやってきて浮きを付けて落とす。それをすばやく回収する、などと言った方法がある。フロリダはキーウエストを含めCoast Guard/沿岸警備隊の監視がきつい。レーダーによる監視も力を入れている。

そこで輸送リスク分散でポピュラーになってきたのはプエルトリコ・ルート、又はドミニカ共和国-プエルトリコ・ルートなどの「カリビアン・コリドー」だ。プエルトリコのCoast Guardは本土より人員が少ないとも言われていた。

そしてプエルトリコに一旦入ってしまえばアメリカ国内だからそこから先へのディストリビューションの監視はどうしても甘くなる利点がある。

海岸の監視が甘いドミニカに落とし、海上でドミニカ-プエルトリコ間を受け渡す。レジャー・ボートだってヨットだっていい。

DrugCoastGuard2.jpg
「おい、今日は大漁だなあ」

そして、ボケロンからパルゲラ、サリナス、ハファルドなどのプエルトリコのハーバーや漁港に、いや普通の海岸にだっていい、陸揚げするという方法もポピュラー。

◆◆◆


90年代の島はなぜか景気が好調に伸びた。その経済好調の中に、よく聞こえてきたニュースがある。

「ドミニカン・マフィアがショッピング・モールを買収したらしい」
「あそこのボウリング場もそうだ」
「BMWとベンツの最上級クラスが結構売れている」
「マイアミのディーラーからマスタング・コンバーティブルやチェビーのカマロとか派手な新車を10台まとめて買ったらしい」

mustang.jpg20050627153524.jpg

ディーラー達の贅沢とマネーロンダリングがよく噂された。商品は基本的に本土へそのまま横流しされるのだが、やはり島内にも流れる。また、うまくちょろまかして自分のポケットに入れようとする奴も出る。

それがジョレンス・トレスで遭遇したようなシーンを生んだのだろう。

BMWやマスタングに大型スピーカと強力なアンプを積んでくれ、という注文が知り合いのカー・アクセサリー専門店に結構入ってきたのもこの頃だ。

(続く)
←なんだ、ちっとも音楽の話になんないじゃねーか。ひっぱりすぎ。
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  1. 2005/06/26(日) 01:18:50|
  2. RAP & REGGAE
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レゲトンになる前のラップ&レゲエ(-1)

ドラッグ・ディールの問題は90年代に始まった事ではない、のは誰でも知っている。

70年代後半から80年代はヒッピー文化やベトナム戦争の後で、ヘロイン、コカインなどドラッグの大衆化の時代。

それに乗る形で80年代初頭からコカインの生産拡大、ロジスティック経路の多様化、そしてディストリビューション/販売網の強化という普通の商品と同様、売上と利益拡大に努力する企業集団がいた。

丁度、ハーバード卒のMBAが皆コンサルティング・ファームに流れ、コンサルがはやり始めていた頃。経営工学の理論がドラッグ産業の近代化に貢献していたのは間違いない。

というのは全くのでまかせである。むしろMBA君達も消費者として貢献していた可能性はあるかも。

パブロ・エスコバルが仕切るコロンビアのメデジン・カルテル、そして対抗馬として力を伸ばしたミゲール&ヒルベルト・ロドリゲス・オレフェラ兄弟のカリ・カルテルなどと呼ばれた組織が力を伸ばしていた。

pabloEsco.jpg
Pablo Escobar

生産から販路までの整備だけでなく、新製品の拡販も消費者の拡大に大きく貢献した。「クラック」である。

コカインを重曹と煮沸し純化して作るクラックは分量に比して効果が強いので、少量パッケージにし易く、流通も容易で利ざやも良いと来ている。アメリカ政府のコロンビアへの様々な圧力にもかかわらず、80年代は麻薬問題が急速に悪化した時代だ。

そんな中で、80年代後半ギャングスタ・ラップが登場する。確かにEazy-Eが元々ドラッグ・ディーラーだったらしい事はファンなら知っているし、ノトーリアスB.I.Gがクラック・ディーラー嫌疑もあって高校中退したのも80年代終わりころではあった。

しかし、もちろん実はギャングスタでもなんでもない家庭の出のギャングスタ・ラッパーもけっこういたわけで、ギャングスタのスタイルと実際のギャングを同一視するのはバカな話だが、そんなムードの漂う時代ではあった。

Eazy-E.jpg
Eazy-E

◆◆◆

話が長いゾ。
プエルトリコである。
ちょっと90年代の殺人発生率の推移を見てみよう。

90年代に入って、殺人発生率がどんどん上がった。94年がピークである。
このときのプエルトリコは島をアメリカの州の一つと見立てればランキングは全米第4位。そして首都サンファンはトップのありがたくない栄誉に輝いている。

しかし、プエルトリコがめったやたら銃撃戦の嵐になったのではない。ある程度殺人事件の発生場所や時間帯は集中していた。
英語で言えばゲットーとなるだろうか、低所得者用ハウジング・プロジェクト(団地)やその近辺の場所、盛り場の一部、時間帯は夜、という事になる。

◆◆◆


ある日の夜、空港に人を送って26号線を車で帰る途中、ジョレンス・トレス・ハウジング・プロジェクトが右手に見えてきた時だった。

(続く)


  1. 2005/06/21(火) 00:04:29|
  2. RAP & REGGAE
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レゲトンになる前のラップ&レゲエ(-2)

90年台前半、島に移住した頃の週末の暇つぶしは:

①ダイビング
②無料&有料コンサート/ダンス・スポット
③CD屋

と言う感じだった。

日本で素人サルサバンド組んだ頃、最初に買ったのが新譜で出ていたウイリー・コロンの"METIENDO MANO"。そこで「プエルトリコ」というものがあるらしい、と知ってぼちぼちとサルサの音盤を買い足していった。
MetiendoMano.jpg
"Metiendo Mano"(1977)
Willie Colon

そんな時から、ずいぶん経ってプエルトリコに住むことになった自分はもう奇跡みたいなもんで、LP、CDでしかお目にかかれないサルサを、メレンゲを、プレーナをボンバをヒバロをと追っかけ回していた。

それと同時に、ブラックな音楽やジャズもやっていた身としては、その楽しみも簡単に手放すわけには行かなかった。NYの一部とも揶揄されるプエルトリコ、音の入手は楽だった。もうネットはあったが、まだAmazonなど影も形もない頃だからありがたかった。


その中で音楽系雑食性分裂症を助けてくれたのは、まずCD屋の兄ちゃんねえちゃんや親父との話。

サルサにやたら強いGarden HillsのCD店、Gran Discotecaのペピート、ポップスならお任せのチャヤン命のMontehiedra/Casa de Los Tapesのガブリエラ、ヒバロとムシカ・デ・アジェール(ナツメロ)ならサンタロサ・モールのハビエル親父、ラテン・ジャズならAvenida Central/CLTのジョージ、ロックならTorimar/CLTのミゲ、ガルデルやティト・ロドリゲスやサルサ全般の話ならビエラ親父と常連たちだった。

そんな師匠/友人に地元CDの棚を端から端まで教えてもらっていた時に、プエルトリコのラップに出会った。

◆◆◆


USヒップ・ホップを初めて聞いたのは、ハービー。ハンコックの"Future Shock"のスクラッチつながりだったと思うが、まとまって聴き始めたのはアフリカの某国から日本に帰ってきた90年ころだったと思う。

きっかけは学生時代の友人が日本のヒップ・ホップのはしり、近田春夫のビブラストーンのメンバーだったからだ。



FutureShock.jpg
Vibrastone.jpg
"Future Shock"(1983)
Herbie Hancock
"Best 1991-1994"
Vibrastone


で、ラップも面白いぞ、と聴き始めた。ゴールデン・エイジの後半から西海岸のギャングスタ全盛へって頃だった。NWAからアイスキューブが、Eazy-Eが、そしてドレーが飛び出した頃だ。

ブーツィー・コリンズやジョージ・クリントンの好きだった自分には、G-Funkもかなりつかまったなあ。



StraightOuttaCompton.jpg

WhatsBootyDoin.jpg
"Straight Outta Conpton"
N.W.A.

"What's Booty Doin?"(1988)
Bootsy Collins


一方でEPMDの"business"シリーズの不安定さが、ビッグ・ダディー・ケインの成金的むふふが、エリックBとラキムのJBのサンプリングが皆かっこよかった。NASのNYでしかないクールなカッコよさにやられたりもした。90年代はヒップ・ホップの名盤の嵐だ。



DontSweatthetechnique.jpg

Illmatic.jpg

"Don't Sweat the technique"(1992)
Eric-B & Rakim

"Illmatic"(1994)
NAS

◆◆◆


さて、プエルトリコである。

その頃、CD店は皆地元のラップをまともな商品として見ていなかった。訳のわからん子供がやってるうるさい音楽で、ミックス・テープやプレス枚数少ないCDをライブとかで流通させているだけだし、普通のディストリビューションには殆ど乗ってこないからだ。

下町バリオ・オブレロから昔のダウンタウン、パラーダ18あたりまで車で夜移動すると、メレンゲとラップを車のオーディオ・システムから大音響で鳴らしている兄ちゃんたちがたむろしているのによく出くわした。

その音がなんなのか知りたくて、聞いてみたかった。しかし、車を停めて兄ちゃんたちと話す、なんて事はちょっと考えられなかった。なぜなら94年のプエルトリコは史上最悪の殺人発生率を記録していたからだ。ドラッグ・ディールである。

(続く)  
  1. 2005/06/14(火) 00:30:22|
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